AKAKURA SPA Tourism Association.
HISTORY
文人名士に愛された明治以降の赤倉温泉
~尾崎紅葉、与謝野晶子、有島武郎…~
赤倉温泉が温泉地としての発展をとげるにしたがい、多くの文人、名士等に愛されるようになりました。
明治32年、「金色夜叉」で時代の寵児となっていた尾崎紅葉が赤倉温泉を訪れ、香嶽楼に滞在しました。そして、妙高山の絶景に感動したのは勿論のこと、霞の向うに見える頚城平野、日本海、佐渡島の景色を絶賛し、名産品であるくず粉のことなど、赤倉温泉の魅力を多岐にわたって紀行文「煙霞療養」にて全国に紹介しました。尾崎紅葉は、赤倉温泉を「天下一」と激賞したのです。
明治39年、横山大観、菱田春草、下村観山らの師で、日本近代美術の父とも言える岡倉天心が、家族とともに、赤倉温泉に避暑にお越しになりました。当地を激賞した天心は、別荘「赤倉山荘」を建て、毎年夏には避暑に訪れ、また、晩年を当地で過ごし、当地が終焉の地となったのでした。
明治41年秋、与謝野晶子、与謝野鉄幹、有島武郎らも尾崎紅葉と同じく香嶽楼を訪れ、当地の絶景を
主な題材とし、歌詠みをしました。
大正11年、細川侯の別荘が設けられました。すると、高松宮殿下、秩父宮殿下が年末にスキーにおいでになり、新聞もこぞってこれを報道しました。また、大正14年に久爾宮家の別荘が建てられ、皇族の
避暑地となって更に有名になったのです。
こんなことから、赤倉温泉は、避暑地、高級別荘地としての発展も進み、「妙高倶楽部」と称し、サロンとも言える名士の集まる別荘が建てられるなどしました。そして、大正5年の全国避暑地投票において
3万票を獲得し、全国一位に輝きました。
昭和33年には、岡本太郎が中心となり、赤倉温泉を愛する友人達が楽しく過ごせるロッヂとして、「赤倉サンクラブ」が建てられました。
昭和39年に出版された「日本百名山」の著者深田久弥は、赤倉温泉の椿荘和田に滞在し、同書を執筆しました。当地の「妙高山」「火打山」を日本百名山に選び、日本を代表する山と激賞したのです。
(「煙霞療養」写真)
赤倉温泉が全国に紹介された尾崎紅葉著「煙霞療養」(香嶽楼所蔵の初版本)
(与謝野晶子の詠んだ歌の短冊の写真)
与謝野晶子の詠んだ歌の短冊(香嶽楼所蔵)
(岡倉天心の手紙)
岡倉天心(本名:岡倉覚三)が遠間徳次郎(遠間旅館)に宛てた直筆の書簡
(旧久邇宮別荘跡の写真)
赤倉温泉の天心公園の上にある旧久邇宮別荘跡は、夏でも涼しく景色のよい癒しのスポットです