AKAKURA SPA Tourism Association.
HISTORY
~江戸時代文化13年(1816年)~
江戸時代文化11年(1814年)、村民代表として庄屋の中嶋源八らが中心となり、役人松本斧次郎を介して、越後高田藩主榊原政令(さかきばら まさのり)に、温泉場開発の願いを出しました。11代将軍徳川家斉の時代です。
前記の通り、当時、妙高山は宝蔵院が管理し、入山すら禁止されていたのです。
そこで、温泉買い入れ金800両、打撃が予測される関の湯(現関温泉。これも宝蔵院の領地)への迷惑料300両を宝蔵院に支払うことを条件に、文化12年に許可を受けました。
米一石一両の時代に、実に1,100両もの出費でした。
そして、文化13年(1816年)3月より着工し、同年9月下旬に温泉引湯に成功し、湯船2箇所
(共同浴場)ができ、入浴できるようになりました。引湯にあたっては、佐渡、越中より取り寄せたと言われる大竹や自生する木で、妙高山地獄谷より6~7kmの距離を結んだという今では信じがたいほどの大事業です。その間、総経費として、3,120両2朱余がかかり、拝借米2,000俵、続く温泉宿の建設や新田開発の費用が2,161両となった、まさに高田藩の命運をかけての壮大な開発事業でした。
その後、松本斧次郎は、初の温泉奉行となり、赤倉温泉は我国唯一の藩営温泉となりました。赤倉温泉の誕生は、日本初の「第三セクター」と言ってもよいでしょう。「殿様が造った温泉郷」とも呼ばれています。
平成28年(2016年)に赤倉温泉は開湯200周年を迎えました。
(温泉開湯の誓願書)
赤倉温泉開湯時の誓願書(遠間旅館所蔵)