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赤倉温泉の歴史

HISTORY

HISTORY

「東洋のバルビゾン」赤倉温泉

「東洋のバルビゾン」赤倉温泉

明治39年、岡倉天心が赤倉温泉の地を訪れました。岡倉天心は、世界的画家横山大観、菱田春草、下村観山らの師として知られ、日本近代美術の父とも言われている人物です。

岡倉天心は、当地を訪れると、「世界一の景勝の地」と激賞しました。そして、別荘「赤倉山荘」を造るとともに、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようという構想をつくりました。

「バルビゾン」とは、フランスの都パリの郊外にある美しくも静かな村です。「落穂ひろい」や「種まく人」で有名な世界的画家ミレーらが住み、多くの画家を輩出した地です。天心は、赤倉温泉に日本美術院を移し、バルビゾンに負けない芸術発信地にしようとしたのです。そこで、天心は、弟子の横山大観、菱田春草を赤倉温泉に招き、彼らもまた赤倉温泉を激賞しました。ところが、天心があまりに当地のことを熱を入れて誉めるので、その意向を察し、本題を切り出される前に、天心が寝ている隙を見て東京に帰ってしまったのです。大観と春草は、赤倉温泉を絶賛しつつも、東京からは余りにも時間がかかる遠いこの地に美術院を移すことには納得できなかったのです。

時は流れ、平山郁夫画伯に岡倉天心の遺志を実現したいとのはたらきかけをいただきましたが、それも実現に至る前に平山郁夫画伯が他界されました。

現在、赤倉温泉と東京は約3時間で結ばれるようになりました。これを横山大観、菱田春草が知ったら、赤倉温泉を「東洋のバルビゾン」にしようと納得することだったでしょう。

岡倉天心(おかくら てんしん)・・・本名は、岡倉覚三(おかくら かくぞう)。江戸時代末期1862年(文久2年)、横浜に生れ、1913年(大正2年)9月2日、50歳で赤倉温泉にて永眠。

 

岡倉天心は、明治期の美術指導者であり、思想家です。東京美術学校(現・東京芸術大学)を創設し、初代校長となりました。そして、横山大観下村観山菱田春草らの大画家を育てるとともに、

 

橋本雅邦(はしもと がほう)と日本美術院を創設し、美術運動の拠点としました。その後、ボストン美術館の東洋部長をつとめるとともに、この時代にあって、なんと英語で「茶の本」を出版したのです。世間が、西洋文化の波にのまれつつある中で、東洋・日本の文化と思想の重要性を訴えた思想家としての一面をあらわにしました。

岡倉天心は、日本近代美術の父と言われながらも、自身では、ほとんど美術作品を残しませんでした。一方、多くの芸術家を育て、天心は、美術品の目利きでありながら、“人間の目利き”であり、芸術の題材となる“景勝地の目利き”であったと言ってもよいでしょう。その岡倉天心が、赤倉温泉を

賞して、「世界一の景勝の地」と語ったのです。また、「山の赤倉温泉、海の五浦(いづら 茨城県)」として、日本を代表する両景勝地とそこに住む人たちをこよなく愛しました。