AKAKURA SPA Tourism Association.

赤倉温泉の歴史

HISTORY

HISTORY

大正時代の赤倉温泉を象徴する「妙高倶楽部」

大正時代の赤倉温泉を象徴する「妙高倶楽部」

大正元年、東京の弁護士小出五郎、侍医頭入澤達吉らが中心となり、「妙高倶楽部」を組織し、赤倉温泉に別荘を建て、当地の開発に努めました。「妙高倶楽部」は、名士の集いの場となり、赤倉温泉が高級避暑地としての発展を遂げてゆくことになるのです。そのレジャーは流行の最先端をゆくもので、この時代にあって、乗馬場、テニスコート、玉突き(ビリヤード)、また麻雀荘までがあったといわれています。

まさに“モダン”という言葉がぴったりです。

これをきっかけに、温泉付の別荘がどんどん売れるようになり、赤倉温泉は、高級別荘地としての顔も

持つようになりました。

明治21年に鉄道が整備され、田口駅(現妙高高原駅)ができ、大正12年に赤倉―田口間の直通道路が開通すると、昭和2年には、赤倉温泉への定期バスも運行され、赤倉温泉の繁栄は約束されました。

その後、赤倉温泉は、日本初の公認リフトを建設し、スキーブームを牽引するなど、トレンドの最先端を歩んで参りました。

そして、現在は、観光地の乱開発が進む中、妙高戸隠連山座国立公園という立場から、大自然を大切にする景勝地として、また“本物の温泉”を守る温泉地として、四季型の観光に取り組んでいます。

 

明治後期の誘客、別荘誘致のポスター

当時にあって、テニス、乗馬などのモダンな様子が見られた

(現在の「滝の湯」「足湯公園」の周辺)